【少年野球】元NPB審判 山崎夏生の「Go To Umpire!」



 

はじめまして、山﨑夏生です!

「Go To Umpire!」

初めまして。山崎夏生と申します。

「お父さんのための野球教室」で今月からブログを書かせてもらいます。

まずは簡単な自己紹介から。

幼少の頃から野球が大好きでした。

夢はもちろんプロ野球選手になることでしたが、そんな才能も実績も無く断念。

でも、とにかく野球で飯を食いたい一心で挑んだのがプロの審判員でした。

幸い運と縁に恵まれ1982年から29年間パ・リーグ審判員として裁き、2010年に55歳で現役引退。

その後8年間、NPB審判技術指導員として若手の育成に当たり、一昨年退任しました。

都合37年間のプロ野球審判人生でした。

たいした審判員ではありませんでしたが、それでもこの仕事を通じ多くのことを学ばせてもらいました。

今はそんな経験を多くの人々に伝えたく勝手に「審判応援団長」という肩書を付け、書いたり喋ったり、という日々です。

「誠心誠意のジャッジ」

さて、まずは初めて子供の野球のお付き合いで審判を始めよう、というお父さん達へ。

正確無比で完璧なジャッジをしようなどとは思わないでください。

これは何十年もやったプロの審判員でもできないことなのです。

ましてや、きちんとした審判講習やルール知識、フォーメーション(動き方)などを理解していない初心者には無理なことです。

せいぜい80点でOKと割り切ってください。

プロでも99点までしか取れない、それが審判です。

100点を取れるのは神様だけです。

でも、100点を取れる項目もあります。

それが「誠心誠意のジャッジ」です。

「Be Respected!(尊敬される人間になれ)」

1993年にアメリカの審判学校に派遣留学させてもらった時、その1時間目の授業で校長のジム・エバンス氏はこう語りました。

「Be Respected!(尊敬される人間になれ)」、続けて「人間の限界は99点だ。」

その欠ける1点を補うのが監督からも選手からもファンからも尊敬し信頼される人間性なのだ」と。

腑に落ちました。これこそが審判のあるべき姿だと信じ、その教えを若手に強く説き続けました。

まずはそのために何が必要なのか。

きちんとした身だしなみです。

全力疾走です。

そして堂々と右手を上げる、あるいは広げるといった所作。

そしてそのための準備です。

仕方なく審判をさせられているんだ、そんな雰囲気を敏感な子供たちはすぐに察します。

僕たちの一生懸命のプレーをいい加減な気持ちで裁いている、それでは尊敬も信頼もされません。

子供たちの前で酒臭い息を吐いていたり、たばこを吸っていたり、よれよれのTシャツ、折り目の無いスラックスで審判をしようなどは言語道断。

全てのプレーに対し全力疾走を心がけ、見たままに自信を持って大きな声でコールする。

たったこれだけのことができないのはやらないからです。

できないのとやらないのは違います。

審判として指名されたならば最低限、この覚悟は持ってください。

とんでもない大間違いもあるでしょう。

それでもきちんとした審判練習をしていない判定技術ではおぼつかないこともあります。

とんでもない大間違いもあるでしょう。

かつては審判の判定は絶対だ、と押し通す風潮もありましたが、今は逆に反感を買うばかりです。

精いっぱいの子供たちのプレーに対しても失礼。

そんな時は審判員同士がすぐに集まり協議をして判定変更をしてもかまいません。

もちろんこれは誰の目から見ても明らかな、という場合のみです。

微妙なケースでは混乱を招くばかりですから、このさじ加減は難しいものですが、勝ち負けにとらわれ過ぎて熱くなるベンチや父兄の方々も公平な目で見て欲しいものです。

またルールの適用ミスは断じていたしませんように。

ルールブックは必ず携行してください。

その確認のために時間を要しても、間違えたまま試合を進行させることは最悪なのです。

次回は初歩的なプレーの見方のテクニックについて書きますので、お楽しみに。

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この記事を書いた人山﨑 夏生山﨑 夏生
1955年7月2日、新潟県上越市生まれ。幼少期から野球が大好きで、プロ野球選手を目指すも、実力を悟り断念。79年に北海道大学文学部国文科卒業後は、プロ野球担当記者になろうと、日刊スポーツ新聞社に入社。しかし、野球現場への夢を諦めきれずに一転、同社を退社して82年にパシフィック野球連盟と審判員契約を締結する。84年、一軍戦に右翼線審として初出場(西武対南海)。同年に、Jr・オールスター戦に出場(以後3年連続出場)すると、86年イースタン・リーグ優秀審判員賞受賞した。88年、一軍戦で初球審(ロッテ対南海)すると翌年、一軍戦レギュラーメンバーに昇格。フロリダのジム・エバンス審判学校(フロリダ)への派遣留学、オールスター戦出場などの経験を積み、99年7月に一軍公式戦1000試合出場達成。10年10月に千葉マリンスタジアム最終戦(ロッテ対オリックス)で現役引退するまでに、一軍公式戦1451試合に出場した。その間、歴代1位、計17回の退場宣告を行った審判として知られる。引退後は日本野球機構(NPB)と審判技術指導員として契約。18年に同機構を退職し、現在は「審判応援団長」として審判の権威向上と健全なる野球発展のために講演・執筆活動を行っている。

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